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マネ

エドゥワール・マネ(Edouard Manet)】
●印象派
●1832年1月23日‐1883年4月30日
マネとモネ、よう間違われるちうワケやがまるっきしの別の画家や。わてもボウズの頃は、マネとモネがごちゃ混ぜになっとったことがおました。マネは、どエライ上品で紳士やと画家仲間でも評判の良かった人やけど、そやけどアンタ、彼が描く絵は毎日毎晩壱年中世間をにぎわせて批判されとったんや。現代のわてたちがマネの絵を見ると、どエライ綺麗やと感じまんねん。そやけどアンタ、彼が生きとった時代は、好きなように絵を描くと周囲から批判されてまうこともおました。そないな時代に生きたマネとは、一体どないな画家やったんでっしゃろか。

マネのプロフィール

マネの本名はエドゥワール・マネとええまんねん。1832年にパリの高級官僚のボウズとしてうまれはりました。おとんはマネを法律家に育てたいと考えとったんやが、マネは16歳の頃に画家になりたいと考えとったんや。せやけどダンさん、おとんは画家になることを許さへんし、親子の間はぎくしゃくしてしもてまんねん。
その状況から逃げ出したかったマネは、船に乗って働き出しまっせ。
マネが18歳のときにもっかい画家になりたいとおとんを説得してようやっと画家のたまごとしてスタートするっちうことができましたのや。

マネは昔の絵画を尊敬しとったさかい、構図を参考にして何枚も絵画を制作しましたわ。
せやけどダンさん、マネが描いた作品はどエライ批判されてまうのや。批判されることによってマネの名前は一気に有名になってしもたのや。ごっついショックに、マネはちーとの間絵を描くことすらできなくなったんですわ。絵画は売れしまへんやったが、裕福な家やったんで生活に困ることはあらへんかったようや。
マネはサロンで認められはることを常に望みながら描いとったんやが、1870年代まで認められしまへんやった。マネがようやっと評価されはじめたころ、マネは病気になってしまいまんねん。神経系がマヒしてしもて、手足が動かいなくなってしもたのや。ほんで1883年、51歳でこの世をさったんや。

マネの絵画の特徴

マネは、スペインやイタリアの影響を受けとりますが、明るい色、立体感・遠近感をあんまり感じさせへん平面的な絵画をようけ残してるんや。
こら印象派の特徴でもおます。せやけどダンさん、印象派のようけは黒色をほとんど使うことはあらへんかったんですわが、版画もやっとったマネは、絵画の一部に黒を取り入れとりまんねん。遠近感や立体感をつけへんかったマネの作品は、当時のヤカラは、マネに立体感を出す手法を知らんからやとも言われとったんや。
マネは絵画を制作する題材として選んやもんのようけは、現代の生活を描いとったんや。マネは、「印象派」ちう枠にとらわれることなく、風景、日常、肖像、伝統的なもんやらなんやらを油絵やパステルで描き続けたちうワケや。
今では印象派に分けられとるマネなんやけど、実際は印象派におさまりきらへん絵画もようけあり、現在の研究家たちをなやませとるのや。

マネの有名な絵画

■草上の昼食

マネがこの絵を描くまで、女性の裸像は女神に限られとったんや。せやけどダンさん、マネは生身の女性を描おったさかいす。このことがパリ中の批評家たちにとっては下品にうつったんや。現実的すぎる状況を描いた草上の昼食はこれまでの伝統的様式に対する挑戦やと受け取られてしもたんや。構図そのもんはラファエロを参考にしてるんや。オルセー美術館におます。

■オランピア

サロンに入選した作品やけど、そやけどアンタ、草上の昼食以上に批判をあびた作品や。タイトルの女性の名も批判の対象になったんですわ。女性が身につけとるもんや周りに配置されとるもんからも、女性の職業をはっきりと表現してるんや。マネ自身はオランピアをオノレの最高傑作と考えとったんや。現代ではもちろん評価の高い作品や。オルセー美術館におます。

■笛吹き

マネの友人が笛吹隊の少年をモデルにして欲しいと連れてきた少年を題材に描いとりまんねん。ポーズはモデルを描いとるのやけど、顔はマネの息子をもとにしてんといわれとりまんねん。教科書にもんっとる絵画やから、見たことがある人は多いんとちゃうでっしゃろか。スペインの画家の構図を参考にしてるんや。これもオルセー美術館におます。 マネはどエライ個性的な絵画を描き、他の印象派にも大きな影響を与えとりまんねん。世間に批判されつつも絵画を描き続けた彼は、晩年にようやっと認められはるようになったんですわ。現在では、モダンアートの創始者ともいわれとりまんねん。

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